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下仁田温泉・清流荘-3-

2014年に世界遺産登録をめざしている富岡製糸場を訪ねた。「世界を変えた日本の技術革新」という、今でも通じるうたい文句。
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第70章 下仁田温泉・清流荘と富岡製糸場-3-
Chapter 70 section3, Gunma prefecture, Shimonita onsen Seiryusou -3-
English information : Tomioka silk mill

70.6 富岡製糸場 (Tomioka silk mill)

 下仁田温泉の風情からかなり離れるので、これを紀行として紹介するか、それとも、余談として紹介するか少し迷ってしまった。でも、これは地域としては一体であるので、紀行として-3-で紹介いたしました。
それに-4-もあります。

 下仁田の東が富岡市である。有名な富岡製糸場は2014年に世界遺産登録をめざしている。6月下旬から審査が始まる。現在、長い道のりを経て審査リストに残っている、ので、なんとか今年の世界遺産登録にならないかと強く期待している。つい4月末に「勧告」=ほぼ間違いなし、が出て、可能性は一層高まった。

 もし、6月下旬に登録されれば、東京からは富士山と同じ近さでしかも手軽に行ける大観光地に変身するだろう。世界遺産は賛成だが、大観光地はちょっと…、でもやはり興味津々だ。登録名称は「富岡製糸場と絹産業遺産群」(世界を変えた日本の技術革新)である。見るからに登録されそうだ。そして、聞けば聞く程、期待しまくりです。「産業遺産」は発祥のヨーロッパに多いから可能性は高いと思う。

 上州電鉄の上州富岡駅か徒歩なら約15分である。駅の裏には無料の広い駐車場がある。製紙場の近場は有料なので、無料駐車場に車を止めた。街を歩いた方が発見がある。静かな街を歩くこと約20分で富岡製糸場に到着した。

・ 4月の中旬、東京の桜は終わり、上州は桜のまっ盛りである。赤煉瓦造りの製糸場に到着した。すこぶる天気が良い。一年でベストシーズンだ。長い3階建て(に見える)レンガが横浜港のレンガ倉庫を思い出す。この建物は乾燥用の建物(東繭倉庫)だ。窓がすべて閉じているが、これは、繭を乾燥させる時にだけ開ける窓で、上州の空っ風がとてもいいはず。
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・ 桜か桃の花が入口で咲き誇っている。
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・ 明治5年が建てられた年だ。実に明治維新直後である。なぜ、こんなに早く建てられたのだろうか。
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・ パンフレットの絵柄、赤煉瓦が赤く描かれている。湯治も赤が印象的だったに違いない。
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・ 最近の空撮写真。しかし、中央の茶色の建物が2月の大雪で倒壊してしまった。
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・ 当時の建物の配置。
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・ この建物は先ほどの乾燥建屋の左手にある操糸場である。2階建てに見えるが内部の天井高はかなり高い。
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・ 内部はこの通り白い天井が印象的だ。上の三角の柱がトラス構造である。
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・ 製糸機械が整然と並んでいる。約4800台あるそうだ。自動機械の極致だ。一つのユニットで繭を10個弱程度の糸を引いていた。
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 ナンカ、デジタル機械を見るようだった。話はまったく飛ぶが、ペンシルバニア大学で1946年に造られたコンピュータ1号機を思い出した。見たことはないが、ここに17000本強の真空管が使われていたからだ。

 重さ30トン、広さ100㎡の代物だ。コンピュータは1/0(ON/OFF)の二進法に単純化して繰り返し計算をする機械で、ON/OFFに真空管が使われていた。

 製糸場はこれとはまったく違う、が、同じ機械が超多数並んでいる風景が同じイメージなのだ(真空管は整然と並んでいなかったような気がするし、まったく余計な話でした)。

・ 案内して頂いたのが、ボランティアの方だ。繭のストラップがいい。この方、ものすごく博識、博学な方、説得力のある説明、感服いたしました。
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・ 昔は、こんな風に一人でやっていた作業だ。繭をお湯で暖めて、接着していた糸を繰り出せようにして、手作業で紡いでいた。数個の繭から糸をよりながら、紡いで行くが、なにせ、手作業で基準も曖昧、それで太さがまちまちなため、海外では粗悪品の代名詞が日本製だったという。(これでも歯車を使って、手で一回まわす毎に約4回(4倍の速度)のハイテク製品だった。
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・ これをフランス式の集中一括方式でやるという、当時としては画期的な操糸工程だった。
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・ 当時の写真を振り返る、繭の山と格闘する女工さん。子供の頃、養蚕試験書に行ったことがある。あの匂いに満ちていたのかも。
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・ 数百人いたという皆さん、和風のヘアスタイルだ。手入れが大変だったろうと余計な心配をしてしまう。
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・ これは、日本かフランスか?分からない風景。先ほどの湯煎による操糸をN倍化した風景だ。洋風の生活スタイルについては後で補足します。
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・ 繭の写真、一匹が自分の次の世代を生む為に、繭という「家」を造る。一つの繭はカイコが吹き出す一本の糸が造られる、その長さ1300m! カイコは口から1300mにもなる糸(家を造る為の原料で、カイコ自身の体内で造ったバイオ原料)を途切れることなく吹き出していたことになる。スゴいヤツ。
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・ その後、自動化された後の状態(DVDで放映されていた)。繭の糸は機械で繰り取って行く。戦後、開発されたこの自動機械全部を、最終的には約20〜40名で運転したそうだ。4800÷20なら240倍の効率化だ。すごい! さて、この機械の製造者は現日産自動車の前身であるプリンス機械、これで世界の生糸の生産量の首位になったそうだ。ニッポンすごいぞ。
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・ 出来上がった絹糸、芸術品である。
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 解説員の方の話を要約する。開国後の日本で外貨を稼ぐ用法はお茶と生糸だったという。しかし、生糸の生産量は限られ、もっぱら家内工業の手作業に依存していた。そこで、フランス式の生産方法を導入した。しかも短期間でこの工場を建設した。

 この地方の資源を利用して新しくレンガを焼き、柱用の木を調達した。つまり、工場を輸入したのではなく原材料を現地調達(フランスから見れば海外調達)した。官側で支援したのが渋沢栄一だ。工場の建設と操業にはフランスのブリューナ技師(当時32歳)他が指導したという。年俸は当時の総理大臣に並ぶ高給で遇した。それほど重要な産業だったのである。明治時代の輸出額の1/3を占めていたとも言われる。

 当時、電気はなく、駆動源としては蒸気機関が使われていた。いわゆる産業革命の恩恵を受けたハイテク製造産業だった。その結果、生産量が増えて、当時はごくごく限られていた女性専用の絹糸が、広く世界の一般の人にも行き渡り、絹の大衆化に貢献して来た。

 沢山の女工さんを集め、酷使したかと言えばそうではなく、「高い品質の製品は生産者(女工さん)の健全な労働環境から生まれる」との信念から、一日7時間45分、1週6日操業で日曜休日、病院あり、という現代に近い洋風の生活スタイルだったそうだ。

 ところで、明治時代、女工哀史で知られる野麦峠を越えて出稼ぎに行った女性は、岡谷や諏訪の製糸工場で働いたという。1日に13から14時間も働き、優秀な女工は1年の給金で田んぼ10アールが買えるほどだったという。初心者と熟練者では給金に相当な開きがあった、つまり、能力対価制だったわけで、現代よりも合理的な労働体制だったようだ。みんなやる気を出して、早く熟練者になろうとしたに違いない。

 労働時間の長さに対して、それを苦しかったと答えた人は少なく(統計数値では3%)、むしろ、とっつあんの家で働いていた方がもっと苦しかったという。日本がまだ過酷で貧しい時代(段階)だった。現代でも産業化している新興国や発展途上国では似たような状況だろう。

 日本の特長は勤勉さであるが、これは日本が外国に一度も支配されたことがない島国で、つまり、いつ殺されるか分からない状況では、チョー個人主義が台頭するが、日本ではそれよりも二宮尊徳のような勉学・勤労の倫理観が行き渡ったからだろう。

 さて、この工場は官営工場としてスタートし、いくつかの民間企業家を経て、最終的に片倉氏に譲られた。片倉氏はこの工場を休業後も処分することなく、莫大な固定資産税を払い続けて残し、最後には富岡市に譲渡した方だ。つまり、世界遺産の父とも言える。母はフランスか。

・ 右手の講堂(のように見える大きな建物はブリューナ技師家族の住居である。この他に、操業を指導したフランス人女工さんの住居や、生糸の品質を検査した方の住居、皆の病院も残っている。ブリューナご家族や、女工指導者はホームシックにもかかったらしい。
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・ こちらは日本人女工さんの寄宿舎である(見学は出来ない)。桜との対比がすばらしい。絵になる。銀塩カメラでモノクロで写真を撮っていた方がいた(毎年来るという)。
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・ 中庭から見た西の繭倉庫。入口の東繭倉庫と対をなしている。
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・ 中庭の蒸気釜所は、残念ながら2月の大雪で損壊してしまった。あ〜これで世界遺産は?と思ったが、倒壊した建物は登録されていなかったとの話も聞いたので、影響がないことを望みたい。
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 素晴らしかったのはボランティアの解説員と博物館(東繭倉庫内)だ。世界遺産に登録されてほしいという期待が本当に膨らむ。資源のない国日本と言われているが、生物資源(カイコと桑)はまだまだあったのだ。そんな産業が、またいつかは日本に生まれたらいいな…。-4-では甘楽町小幡地区と妙義山を訪ねます。


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.28 2014 温泉 comment0 trackback0